「大事な人に思いを伝えるために」という言葉の違和感について

終活というフェーズでかならずと言っていいほどでてくる「大事な人に思いを伝えるために」

感動や経験を買うという今どきの価値観に合った綺麗なマーケティングの言葉
どこかしら人に分かってもらいたい、共感してほしいと思う人間の気持ちをある意味逆手に取った巧みなワードだと感じます。

特に、高齢になればなるほど社会的責任は増し、大事にすることばかりで大事にされる経験が構造上若者より少なくなってしまう。環境柄、より響く言葉なのかもしれませんね。

なんと言いますかもう文化の違いだとは理解してはいるのです。

●財産の話はしない。
→上の世代側としては周りへの不信感がある。

→下の世代側としては死ぬのを待っているように思われる。

●どのように人生を終えたいかなどという話はしない。

→上の世代側としては自分で決める気がない。

→下の世代側としては死ぬのを待っているように思われる。

あまりダイレクトにお話をするのも品がないだとか、思いやりがないという評価をする人も(年齢にかかわらず)沢山います。

そういう言いづらいことを伝えるときに、合わせて後世へ伝えたかった気持ちを伝えましょう、というのが「大事な人に思いを伝えるために」の言葉の意図することだと思います。

個人的に思うのは…

遅くない?

そもそもホントに大事なら
日ごろから行動するなり言葉で伝えるなりしておきなさいよ…

いつ死ぬかも分からんのに
悠長に寿命まで待ってられるか、という。

言おうが言うまいが
人徳者で立派な人だったかそうじゃないかなんて、死ぬときにはもう勝手に周りに判断されている気がします。

言って意味があるのは恨みつらみくらいじゃないかしら。

周りが自分の行動を見て
周りの記憶力と価値観と認知の範囲内で判断する。

善き行いを多くしていれば
周りの目にも多く触れることになり
善き人だったと判断してもらえる確率が上がる、くらいの話な気がします。

最期にその人の有り難い言葉でもし感動するとしたならば
今までのその人の行動に照らして「あぁやっぱり素晴らしい人だった」と思うだけな気が。

もう何を言っても後の祭り、という事例を知っているだけに
(超冷たく)そんなようなことを思います。

逆もまたしかりで
仮にその人が素晴らしい人で善き行いをしてきたとしたとしても、遺される側がそれを感知できるだけの器がないのならばその人が素晴らしい人であったと感謝することすらできない。

最期の文字があろうとなかろうと遺された側の記憶と感情の範囲内で遺るものだ、ということが言いたいわけです。

何十年後かに遺された側が亡くなった人と同じような体験をして「あの時のあの人の気持ちが分かった」ということは良くあるけれども、それは、その事実の新しい解釈ができるように遺された側が経験を積まれただけのこと。

最期にどうこう足掻いたって、最早どうしようもないのでは。
積み上げてきた功徳が、認知症やら身体の痛みからくる暴言などで最期に簡単に壊れてしまうことは良くありますけれども。それだって、より新しい方の記憶によって上書きされてしまう遺された側の認知の問題。

これはもう自戒です。

一日一日大事な人を雑に扱うことなく大事にできるよう自分を律していくことに勝る「大事な人に思いを伝える方法」なんてない。

がんばろ。

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