“可処分時間レース”という言葉に納得

“可処分時間レース”の行き着く先 という記事を読んで、いたく納得しました。
真っ当に生きる為には時間がないということですよね。

びっくりするのは記事の話題となっている対象は「若者」であって
育児介護就労の世代ではないということ。
話題となっている若者が育児介護就労の世代になったら、もうどうなってしまうのかしら。

youtubeじゅんぽよチャンネルさんの【米国公認会計士/勉強ルーティーン】動画を見たときにも同様の感覚を持ちました。

感じたことは
生産性がない人間は生きている資格なし圧とでも言いましょうか…。

もちろん行動されている方々ご自身がそういう圧掛けをしているとは思っていません
(羨ましいと感じれば自分もそうすればいいだけの話です。)

私が言いたいのは、そうしないと最早普通に生き残れない社会といいますか
多様性、多様性と騒がれる割には”ただ生きているだけという状態は当然に許されない社会”だと感じるということです。

かといって、昔は良し・今は悪しということを言っているのではありません。

生き方の自由度から言えば、昔よりもずっと人生で取れる選択肢の幅は広がったと思います。
比較される対象も国内の同じ年次の人だけではなく、地球の裏側で日本時間の夜に働いている5か国語話せる若者などと能力の優位性を測られるようになってしまったわけですが…。

とはいえ、そうした生き方の自由度が広がったからこそ自己責任論が広まっていて、
自己責任論の行きつく先は、社会的には弱者でなくとも(弱者であった場合は当然)どこかしら生きづらいと感じる人は増えるという結末ではないかと感じています。

ドロップアウト族である私ですが、
一方でこの”可処分時間レース”には納得するところもあるわけです。

従来型の就労を例に挙げれば、可処分時間レースにとって不要なものは
会社飲み会、通勤時間と首都圏であれば家賃ですね。

最早コロナ禍でなくなりつつある会社の飲み会。
退職後は98%の人とは疎遠(自分比)になるので無駄になります。
往復1時間以上かけて日に2時間、1年に就労日数が200日として400時間は無駄になります。
家賃であれば地方で6万円で借りることができる物件が、首都圏だと11万くらいであったりします。差の5万をかせぐ時間が無駄になります。

そういうわけで、可処分時間レースからドロップアウトしていながらも、その切れ端には共感してしまうという矛盾した感覚でいます。

そのうち、人間自身ですらもコスパで計られるようになってしまうのでしょうね。

2042年高齢者人口が約4000万人のピークを迎えると言われていて
そのころ立派な壮年だか老年だかになっている私は”不要物”とラベルされてしまうのか~と
少し怖い気もしていますが
ある意味まだ迎えたことのない人間高齢化社会に直面するわけなので
それが個としての自身の終焉であっても環境変化に即して身を処していければいいなと思います。

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同じく生きづらいと日々感じていらっしゃる
同士の皆さんが思ったこと感じたことを綴っています。

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貴方にとって良い1日になりますように。
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